路線バスは殺される運命にある

私は今、路線バス会社で操車や事務を担当している。

そんな仕事の合間に常々思うのは
こんな時代遅れなシステムがあるものか
ということである。

 

バスという乗り物の起源は遡ると19世紀頃にまでになるらしい。
3世紀に及んで今現代も絶賛活躍中の路線バスだが、いざ管理する側から見ると、少なくとも現代ではもう直視できないくらい酷い。

まずその3世紀、いや100年単位で絞って見たとして…
1920年から2020年の間に日本の風景は目まぐるしい変化を遂げている。
建物、文化、情報…おそらく五感のすべてを尽くしてもその変化に気付くに違いない。
まず言うまでもなく人が増えたし、それに伴って建物も道路も車も沢山増えた。電車はジップロックと化し、新自由主義の社会が月曜の朝をガチガチに固めている。

ところがバスは何も変わっていない。車掌が居なくなっただけだ。
100年前にハマった渋滞には現代でもハマってしまうし、100年前に載せきれなかった人は未だに載せきれない。100年前に比べて所要時間はむしろ遅くなったかもしれないし、勝俣州和は100年前から姿かたちが一切変わっていない。

しかし頑張っている側面もある。
バス会社側は応えるようにバスの台数を狂ったように増やし始め、連接バスや巨大なバスをいくつも導入した。すると道路は逆にバスのせいでバスが遅れるようになった。

ようやく国交省は重い腰を上げて”バスを優先させるシステムを作ればいいのでは”と考えはじめる。彼らは、左折専用レーンをバス専用レーンに兼用させて大渋滞を引き起こしたり、バスが近づくと信号を青に変えるシステム(PTPS)を取り付けることで、信号を通り抜ける前に赤信号に捕まってしまうバスをあざ笑ったりした。
それは滅茶苦茶風力の弱いトイレのハンドドライヤーくらい意味のない装置だったが、巨額の投資をして国交省は去っていったのである。

そして100年の間、一番変わったことは周辺環境でも人の数でもなく、速度である。
私の車のスピードメーターには270km/hまで速度が刻まれている。ドミノピザはネットで注文すると今ピザにトッピングを乗っけているのか焼いているのかまで分かる。

物理的にも情報的にも速度が飛躍的に向上したが、都市部の路線バスの表定速度は車というよりもむしろ牛に近い。
自家用車でバスの後ろについて走っていると、目的地に辿り着く頃には派手な四つ葉のステッカーを貼る必要があるのではないかと危惧してしまう。
また一部の都市の大きな停留所を除けば、未だにバス停には「多分この時間にバスが来ると思うんですけど(推測)」という紙一枚しか貼っていない。バスロケーションシステムをいちいち見る頃にはもうバスが通過している始末である。

 

結局、システム的に路線バスは時代遅れだ。
同時に、文字通り「路線バスは殺される運命にある」。

そう思う所以の一つは、近々現れるであろう自動運転車の存在である。
貴方が自宅から目的地まで向かうとき、徒歩5分のバス停から出るバスと、自分の家の横に停めてある自動運転機能付き自家用車、どちらで行きますか
と尋ねられた時、大多数の人は後者を選ぶはずだ。
何故なら毎日のように遅れてきては、ドアを開けると7mmに圧縮された人が所せましと並んでいるクルマになど乗りたくないからである。
高齢化社会化が進む日本では猶更可及的な話題であり、この自動運転車が特に地方部において大きく役割を果たすとも考えられる。

最もその実現は当分先だろう。
というのも渋谷駅の近辺を車で運転すると、どう考えても人間じゃないとこんなところ走れないと感じてしまうからだ。
東京の都心一帯は2歳児が道路を設計しているので、6本の車線から突然2本に減ったり謎の分岐が表れたりするし、タクシーは3人くらい轢き殺しているような運転をする。こんな環境でAIが走れるわけがない。パニックになって首都高に入ってしまい
予期せぬエラーが発生したため、自動運転を終了します。
というダイアログを残して高速道路上で停車するだろう。

それに都市部に住む大半の人が自動運転車を持つとすると、駐車場が圧倒的に足りなくなるのは明白である。勿論オフィス街などでは言うまでもない。当分先の話である。

 

ところがバス業界にはもう一つ闇が存在する。圧倒的人材不足である。

最近、業界大手である西鉄バスが、余りに人が足りないため儲かってる路線の本数も大幅に減らしてしまうという話があったが、バス業界は大小問わず人員不足で、その不足ぶりは最早面白おかしい域にまで達している。

例として「連続16時間以上(休憩も含めて)拘束してはいけない」という規定がある。
多くの事業者ではこれを合法的に掻い潜るために、早朝出勤して午前中に一回退勤してもらい、午後にまた出勤して深夜まで働いてもらうという勤務形態が存在する。
中休みとか開放とか呼ばれるこの勤務は、実際のところ退勤から出勤の間に出来ることが昼寝くらいしかなく、しかもその間給料は出ないから、運転士的に一切良いことはない。

弊社はこの中休み時間中にさらに違う勤務をくっつけたり、或いは休日出勤を強制する制度があったが、恐らく弊社よりも過酷な環境にある事業者もごまんとあるはずだ。
そんな過酷な労働条件だが、唯一どの事業者も例外ない事実として、
給料が恐ろしく低い

一方で運転士はものすごくリスキーな職業である。
例えば、バスの中で誰か一人でもこけてケガをすると、その時点で運転士の免許は青色になり、罰金が取られ、社内で懲戒が課される。
そういった些細な出来事は勿論、いざ交通事故を起こしてしまうと、場合によっては逮捕されるし普通に刑務所行きである。会社は何も補償してくれない。

そんなバス運転士を若いうちから目指す人は指折りで、中途採用の人が大半である。
彼らに「なぜ運転士になったのですか?」と訊くことは出来なかった。彼らの目の奥にある、かつての栄光や、夢、闇などを薄ら感じ取るほかなかった。
そんな光景を見渡して、ふと「”夢”の砕石場」みたいだなと思った。

どっちにしろ、バス会社の待遇は終わっている。
待遇を改善するにはまず給料をあげなければならないが、バスは運送単価が低く、しかも人数が足りない中では増便が出来ず減便するほかない。すると収入自体が減少してしまい、負のスパイラルに陥る。

恐らく自動運転車の出現を前に、多くのバス会社はこのスパイラルを以て自害せざるを得ない状況に至るだろう。

 

私は一趣味人として路線バスが好きだったが、余りにも悲惨な環境に対してもうバスに興味を持てなくなってしまった。
しかもその管理する側の仕事もあまりにブラックな側面が多いので、長く続ける気も失せてしまった。

ただ唯一、あらゆる重みを背負って休む間もなく働く運転士の背中だけは、深く敬意を示そうと思った。

数年ぶりにコミケで東方の同人誌を買ってきた話

年が明けました。
私は大晦日も元旦も仕事です、お疲れ様です。

さて、この度は先日数年ぶりにコミケに訪れたことについて、少しばかり書き留めたいと思い更新しました(数年ぶりかどうか定かではありませんが)。
タイトル通り、東方の同人誌を現地で数年ぶりに買いました。当日は何の準備もなくカタログさえ持ってない状態で、別によく知った知り合いが居る訳でもないけど、衝動的に出かけました。

きっかけはその東方の同人誌で、端的に言うと、
以前持ってた薄い本を読み返して
やっぱこの人天才かよ死んだな
って思って飛び出たということなんですが、結果的にそのサークルさんで買った後、その周囲をぐるぐるして帰りました。まさにそのサークルだけを目当てにやってきたのです。
今回はその東方を中心とした話です。

 

東方Project」については今更説明するやもありませんが、一応同人ゲームのことです。この同人ゲームの物語・人物等から二次創作が派生し、2000年代後半にはネット上で大きなブームを築き上げました。
東方Projectの作品は2018年初頭現在で16作品+αあります(厳密にいうともっと多いです)が、幻想郷という彼らの世界を共有しながらそれぞれで新たなストーリーや新規キャラクターが作られており、作品ごとに「東方紅魔郷」「東方風神録」等のタイトルが名付けられています。先のブームは丁度7、8作目辺りの作品、風神録地霊殿等が発売された時点で起こっていました。

私はこの頃中学生となり、オタク街道を突き進む中で当然のように東方に出会いました。
しかしながら当時の私はまだまだウブい時代で、二次元キャラに恋するとかよく分からないみたいな思想を持っており、同時期居た東方オタクの友人の影響からキャラを知り、結果的に東方風神録のキャラクターである「洩矢諏訪子が好き」ということにしました(無論、後々本当に好きになるのですが)。
彼女は簡単にいうと神様なのですが、色々あって蛙がモチーフになっていて、そしてロリです。こういうロリキャラを最初追い求めるのは、恐らく男性オタクの本能なんだと思います。
さておき、そのプロフィールはだいたい2010年くらいまで引きずっていたように思います。
途中で「東方地霊殿古明地さとりってキャラもかわいいんじゃね!?」と思い方向転換したこともありましたが、彼女もまたロリでした。小五ロリとか覚えてますか皆さん?

ところで「このキャラがすき」というのは、どうしても風化しがちです。
特に大人気の漫画やアニメなら兎も角、たかだか同人ゲーム一作品しか出てないキャラというのは「ビジュアル」以外に推し続けるための要素が見当たらず、私の東方ブームは去っていきました。

 

しかし、時は変わって2012年、再びブームはやってきます。
これは皆さんあるかどうかわからないんですが、
「『昔ハマってたアレ、今どうなってんだろう』
と思って一回ググってみたら知らん間に沼底に嵌ってましたw」
というヤツで再発した、私の中の第二次東方ブームです。
このときのきっかけとか云々は忘れましたが、私は当時最新作の「東方神霊廟」という作品にどっぷり嵌っていました。
前回のブームと違う点はキャラクターに嵌ったわけではなく、作品そのものに嵌ったということです。

 

東方神霊廟」は震災の年である2011年に発売された13作目の作品です。
ストーリーを簡単にご紹介しますと
幻想郷(東方の世界の舞台ですね)で大量の神霊(あの白い霊魂みたいなやつです)が湧き、不安に思った神社の巫女さん(霊夢さんですね)が原因を究明しにいったら、聖徳太子が復活していた(?)
という話です。さっぱり分かんないし、すっごいスピリチュアルやね。

誰もが知る厩戸皇子こと聖徳太子は、同時に10人から話されても全てを聞き分け忠言出来たとされ、その才能から豊聡耳(とよさとみみ)と呼ばれました。まあ実際は聴覚過敏だったんだと思います。
そんな聖徳太子をモチーフにした「豊聡耳神子」の現世への復活を描いた作品がこの東方神霊廟です。まあ女の子にされてますけど

豊聡耳神子はいわば別の世界線を歩んだ聖徳太子で、本家の聖徳太子が仏教を広めたのに対し、生前の彼女は仏教を広める傍ら、自らを不老不死として己を高め続け仙人となる道教を信仰しています。
その仙人になる術として、身代わりを持って一旦死体となり再び復活するという手法を用いて、彼女は復活したのです。
彼女の復活には、死への葛藤、部下同士の騙し討ちといった、重苦しいストーリーが暗示されていて、それらが帰結するのは「生きることへの欲望」です。

 

初めて東方神霊廟を知った人の中で、ここまで読んでみて、その意味を理解しそのストーリーの深さを味わえた人は早々居ないと思います。多分めんどくさくて流した人も居ると思います。
その通り、取っつきにくく、そしてダークな雰囲気です。

それは物語の難解な部分、「宗教」というテーマのニッチ性、作者ZUN氏の音楽性の転換など、幾多のものが重なった取っつきにくさでした。
実際のところ色んな所で「今までの東方とは毛色が違う」とか「音楽が受け付けない」とか、結構そういうコメントを見かけた覚えがあります。

私も当初はその一人でしたが、いつも通りキャラクターから好きになりました。
霍青娥」というキャラクターは中国人なのですが、清楚な感じで、優しそうな感じで、ちょっとお姉さんな感じで…。なお人妻です(二年くらいで趣味がごろっと変わりました)。
彼女はその優しそうな表面とは裏腹に、東方神霊廟におけるエピソードのすべての首謀者であり、赤ちゃんぶっ殺したりする残虐なヤツやぞ、と公式に紹介されています。
そんな不穏な紹介がされていたり、何故首謀者なのか?ということを漁っていくと、どんどん深い話が出てくるし、そもそも青娥は何者なのか?と考え出すと謎が深すぎました。
僕はとうとう原書に手を出しました。
東方Projectのキャラクターの大半はモチーフとなった人物とか妖怪がいます。彼女も例によって、中国が清の時代の小説「聊斎志異」7巻に収録されている「青娥」に登場する少女、青娥がモチーフとされています。
僕はクソ田舎に住んでいたので、市内の一番大きな図書館の図書カードを作って、せっせと向かっては読み込むというのを何回もしました。結構病的です。
ちなみに聊斎志異の「青娥」を分かりやすく解説したまとめがありました。

「霍青娥」の元ネタ「青娥」について - Togetter


結果分かったことはあんまりありませんでした。
むしろ日本語訳が難しくて後でネットで調べたりもしましたが、結果的にどんどん神霊廟が持つ世界観に染まっていきました。ちなみにどのくらい染まってたかというと、
〇大学の第二言語を選択する際、青娥が中国人だから中国語を取る
〇他の授業でも道教的な思想を求めて中国文学を選択する
神霊廟の同人アレンジを船上で聞きたいと思い、船で帰省することを選択する
など、大学生なのに小学生みたいな思考で行動していました。
そして気づいたころには東方神霊廟という作品が好きになっていたのです。

 

それからはコミケに行って熱心に薄い本を漁る機会もありました。
コミケにおいてジャンル「東方Project」は結構大きなウエイトを占めていて、カップリングによっては数百のサークルが出ていました。少なくとも2013年までは。
その中での神霊廟を用いた同人の数はというとまあまあ少なめで、2013年の頃は出たてであんまり知られてないからな、カップリングの幅も少ないからな、と勝手に思っていました。

2013年くらいから艦これが一世を風靡したのは皆さんも記憶に新しいと思います。あっちもこっちも艦これに鞍替えして、気づけばチェックしていたサークルの半数以上が艦これという事態。
勿論艦これにもハマってたのでちゃっかり行きました。というかやっぱり、もれなく私自身も東方から艦これに乗り換えていました。

その間の東方はというと、派生作品である書籍「東方求問求授(ぐもんくじゅ)」が発売され、作中では宗教にスポットが当てられます。道教家の豊聡耳神子が長々と喋るだけでなく、仏教をテーマにした前作東方星蓮船のラスボスだった聖白蓮と濃く絡み合い、ゲーム内では分からなかったキャラクターの素性が明らかになりました。
更に同時期、格ゲーの「東方心綺楼」が発売され、そこもやはり宗教がテーマとして神霊廟からは豊聡耳神子物部布都が参戦、そして星蓮船からも2組登場し、最終的に彼らに深く関わる新キャラ秦こころも登場します。ちなみにこの後の格ゲー2作「東方深秘録」「東方憑依伝」でもこれまた5人とも登場しています。
この他書籍の「東方茨歌仙」は主人公茨木華扇が仙人(?)として登場するほか、道中で冒頭の青娥も、もちろん神子も絡むことになります。

すなわち、人々が艦これに行き、そして今やFGOが風靡する最中、僕の元祖推し作品はあろうことか東方Projectの最前線を歩んでいました
発売から5年経った2016年にそれに気付き、こりゃやべえぞと思った矢先行われたのは東方人気投票。文字通りキャラ別、音楽別、作品別の人気投票が、東方Projectでは毎年のように行われています。勿論神霊廟にすべてをかけて投票です。

 

結果からお伝えすると、東方神霊廟は東方の中でもニッチでした。
各キャラも音楽も順位を後退し続けていて、ひたすら困惑です。
どの作品でも超えたことのある10位より上位のランクを、唯一神霊廟はどの部門でも越えたことがない
とか色々見ましたが、とにかくあまり表に出ていない作品ということが分かります。

キャラ部門を簡単に説明すると、上位の辺りはあなたも知ってる主人公とか初期作品の大御所が並らんでいて、第13回で初登場のキャラが上位に組み込まれ、神霊廟のキャラクターたちはなんていうか微妙な立ち位置に居ました。
あんなに二次創作のネタはあるのになぜ流行っていないのか?私は熱心に分析した動画を見たりして調べました。

独断と偏見から申しますと、ロリとエロが売れていました。

それは原作にある、とか、書籍で出た、とか、そういうのは関係なくて、
ただ「ロリ」なだけで潜在的ロリコンが自動的に順位を10押し上げてしまい、このロリ同士がくっつけば…とか考えた天才有名作者が書いてしまっては、たちまち順位は3光年先まで飛んでいきます。
この際に必然的にR18作品が増えていくのが二次創作なのですが、ロリはえっちでも人気だし、ここで巨乳も株を上げます。茨木華扇はいい例でした。
しかもここで「ロリ巨乳」とか考え出す悪~い作家さんが居ます。そんなもの作った暁には人気上昇しすぎでとうとう画面の中のキャラクターに嫌われる勢いです。

あとこれはたぶん他のジャンルでもよくあると思うんですけど、一切絡んだことないのに何故か物凄い売れてるカップリングとかあると思います。
東方の初期作品はキャラ同士が何の話をしているのか分からないし、挙句喋ったことない子とか名前があやふやな子まで沢山いるんですが、彼らは上位にランクしています。ロリか、エロか、モナーにウケた子です。

それに比べて神霊廟の主要なキャラクターはどうでしょうか。
ゾンビ人妻ヤン姉天然聖徳太子

胸は…あるヤツはある。ないヤツはない。
相性がたぶん、悪いんだと思います。

これが分かったとき、当時は悔しい思いもしました。
しかしながら順位は当然つくものだし、もっとマイナーなカップリングを推している人だって沢山いるわけで、贅沢な悩みだと思いました。
そして何よりこの人気投票がすべてを司っている訳ではない。

 

冒頭のコミケに行った話に戻りまして、
ここで改めて、東方神霊廟の薄い本を買おう」と先のC93に向かったのです。

ところがどんなに歩いても、彼女たちの顔や姿の見当たる同人誌は殆ど見かけません。
なんてことだ…世間はそんなにも冷たいのか…と再びショックを受けました。
というのも以前訪れた2013年頃のコミケでは、神霊廟を主体とした島があったのです。
C93では島のかけらもなく、まるでコンビニ弁当の漬物のような存在でした。

人は大人になると、漬物の美味しさに気づきます。
見てくれは微妙だが、ご飯に合うし、栄養もあるし、酒にも合う。しかしながら子供や外人にとって、その美味しさを理解してもらうにはなかなかの苦労が必要です。

よく思い出してみるとこれまでの私の東方オタク歴は、そんな漬物の美味しさに気付くまでの過程を辿ったように思えます。
当初はお菓子が大好きで、一時渋いものを食べたかと思えば、やっぱり肉を食らう。
今の私は老人か或いは貧乏学生で、ご飯に添える美味しい漬物をひたすらに求めている…
(あっ言うまでもないですがここに登場する「漬物」は当然「東方神霊廟」の比喩ですよ。決して屠自古さんではないですよ)

私はそんなわけでもっと神霊廟の”美味さ”について知ってもらうべきじゃないか、そう思いました。
個人的な考えですが、闇雲に大きなジャンルになるより、もっと深みのある熟成されたジャンルとして一定評価を得てほしいと思っていて、そのためここまで内輪的な内容ではなく、出来るだけ概論的に述べて参りました。
すなわち「お前ら、東方神霊廟って面白いからちょっと見てみろ!

 

つづく?

『幸腹グラフィティ』の味わい方

2015年1月現在アニメ化され放映されている「幸腹グラフィティ」(原作:まんがタイムきららミラク)を原作を読みつつ、ぐっと来た部分があったので、半年ぶりぐらいに更新したいと思う。f:id:limeline1551:20150124200623j:plain

その目的は「『幸腹グラフィティ』の味わい方」についてである。というのも周りの反応を見ていると、どうしてもアニメから入った人々が、シャフト演出相まってストーリーや演出の理解に苦悩を示しているように見えるからである。

まず、幸腹グラフィティを連載する「まんがタイムミラク」は、昨今の萌え四コマ漫画を築いた「まんがタイムきらら」シリーズの中でも、ストーリー性を重視した四コマが集まった雑誌であることを念頭においていただけるとありがたい。

そしてこの幸腹グラフィティの作中において一番目立つ存在というと、作中に必ず登場する〝料理〟だ。実際多くの読者・視聴者に向けてそういう面が際立ってアピールされている。
しかし幸腹グラフィティにおける〝料理〟の存在は、あくまで料理が盛られたお皿の存在でしかなく、メインディッシュの料理は3人の人間関係を巡るストーリーだということも忘れてはならない。

 

◇幸腹グラフィティの構成は「食べる」「繋がる」の2段

作中には主役として3人の女の子が登場する。それぞれ「町子リョウ」「森野きりん」「椎名」の3人である(性格や設定等については長くなってしまうため、多少割愛させていただく)。

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町子リョウ : 両親は海外に赴任し、現在独り暮らし。

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森野きりん : 大食い力持ち小学生。元気。

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椎名 : ミステリアスな存在。実はお嬢様。

彼女達の出会いは何れも料理の食事を通じて始まっている。

リョウきりんが出会ったときは「寄せ鍋」<1巻・第1話>
きりん椎名が出会ったときは「飴ちゃん」<1巻・第2話>

そして彼女達は、それぞれそこから親睦を深めていくという形のストーリーが組み込まれている。

きりんは「寄せ鍋」を食べて独り身の『リョウの家族になる!』と決意する。
きりんは甘酸っぱい「飴ちゃん」の悔しさ交じりの味で椎名を知る

と、このように彼女達のエピソードは何れも「食べる」ことが出会いのきっかけとなって「繋がって」いることがわかるだろう。

 

◇「繋がる」ことのむずかしさ ~「憧れ」と「悔しさ」の連鎖~

「繋がる」と単に表現したが、人と繋がるというのには実に様々な形がある。喜怒哀楽、酸いも甘いも様々なストーリーがある。これが幸腹グラフィティにおけるメインプロットであるわけだが、同時にこの作品で特に用いられる感情がある。それは「憧れ」「悔しさ」の表現である。

例としてアニメ第2話の「リョウ椎名を見つけ、椎名きりんが出会う」シーンを挙げていく。特にきりん椎名の感情に注目して頂きたい。

 

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リョウ椎名と既に知り合いであり何の違和感もなく話しかけるが、きりんは初めての椎名におどおどしている。

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リョウが『八十子の…』と紹介すると、椎名は『あぁ、あの小学生の…』と半分茶化したように接近する(「憧れ」)。

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きりんは案の定不愉快な態度をあらわにする(「悔しさ」)。

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椎名きりんがどれだけリョウと親密な存在なのか、以前食べた「リョウの作った卵焼き」の味を知っているのは私だけなんだろうなと言って自慢し(「悔しさ」)、二人の距離感を図る。

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⑤「リョウの作った卵焼き」を食べたことのなかったきりんは「悔しさ」をあらわにして、きりんリョウとのエピソードを椎名に自慢する。

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椎名は『二人が仲いいことは分かったよ』と、リョウと仲睦まじいきりんに「飴ちゃん」をプレゼントして、一人で去っていく*1(「憧れ」)

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⑦見送るリョウきりんは『椎名についていかなくていいの』と尋ねる(「悔しさ」)。リョウは『きりんと一緒なんですから』となだめる。

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きりん椎名からもらった「飴ちゃん」を舐め、『甘い、甘酸っぱい』という感想を残す(「憧れ」「悔しさ」)

 

紹介した通り、きりんと椎名の「憧れ」「悔しさ」が交錯するシーンとなっていることがわかる。

このシーンではきりんが最後に「飴ちゃん」を「食べ」て『甘酸っぱい』という感想を残す描写が描かれている。「食べる」ことで、彼女はリョウとつながりを持った椎名という存在を認識し、そして「憧れ」羨み、口から「悔しい」感想を漏らしている様子が伺える。
本編ではこうした感情を、きりん自身が『知らないリョウがいっぱいだった』と表現しているが、きりんの内面的な感情を翻訳すれば即ち「憧れ」と「悔しさ」に分解されるのである。

また椎名に関しては若干こじつけのように見えるかもしれないが、少々注釈を加えると椎名は仲良しである光景を羨むシーンが原作ではたびたび登場する(アニメでも今後登場するだろう)。要するに彼女は能動的なスキンシップに「憧れ」ているということだ。

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こうした「憧れ」と「悔しさ」の連鎖が、幸腹グラフィティの中ではストーリー全体を通じて常に起こっている。この心理的な描写はアニメを見ていくにおいて重要なポイントであると言える。

 

◇何故「食べる」と「繋がる」のか

アニメ第2話ではこうした一連のやり取りの後、きりんはリョウに「卵焼き」を作ってもらい「食べる」ことで、椎名に対する「悔しさ」の未練を取り払った。事実その後の第3話では、リョウを励ますために椎名と共同で作戦を練る程度には仲良くなっている光景が描かれている。

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この感情の変化はまさに「食べる」ことで「繋がる」ことへシフトする様子だが、何故「食べる」ことが「繋がる」のだろうか

「食べる」空間は、特に日本の食卓においては近代より一家全員が食卓に集っていた。一家の長である父も、料理を作ることの出来る母も、これから未来を担う子も、それぞれ役割こそ違えど、皆一つの食卓に並べられたごはんを食べていた。
幸腹グラフィティにおける「食べる」ときの空間はそれと同じで、各登場人物が一つの食卓に並んだごはんを囲んで平等に食べている。即ち「食べる」ということは、彼女達にとって彼女達同士の感情をリセットする、或いは彼女達の壁を取っ払うためのからくりになっているのである。

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◇「食べる」描写

その象徴として、彼女達3人は料理を召したときのリアクションの設定がある*2。彼女達は「食べる」際、独特の感想を残し、おいしそうに食べている様子が各回に描かれている。また演出では少女漫画風のレタッチとなり、料理が丁寧に描かれるようになる。
3人はそれぞれ違った感想やリアクションを残すが、これらの描写は3人同士がそれぞれ違った感想やリアクションを気にせず、とにかく「食べる」ことに夢中になっている至福の空間、ステータスを表現しているわけである。

こうしたステータスの表現により、彼女達は個々の人間性を残し、彼女達も他人のそれを受け入れる手段を考え始める。逆にいうとそのスイッチこそが「食べる」行為なのだ。

彼女達の「食べる」描写をもう少し探っていこう。先ほど、3人はそれぞれ違った感想やリアクションを残す、と表現したが具体的にリョウは「色っぽい」、きりんは「ダイナミック」、椎名は「大人びて上品」とwikipediaは講評している。

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ところが普段の彼女達は、(きりんはともかくとして)そういった感情を漏らすことなく、普通にしゃべっている。このギャップはなんなのだろうか。 

 

◇幸腹グラフィティのテーマは「自己表現」 

「食べる」描写における彼女達の感想は、彼女達の「自己表現」に満ち溢れたものである。この「自己表現」こそがまさに幸腹グラフィティの真髄、真のテーマである。

結論からその証拠を寄っていくと、まず先ほど椎名に関して、能動的なスキンシップに対して「憧れ」を抱いている、と表現した。2015年1月現在ではまだ椎名の登場回数が少ないこともあり、アニメから視聴し始めた方々にとっては認識しづらいものかもしれないが、アニメ第2話で登場した椎名が一人で花見に来ているという行動から察されるように、彼女が普段他人と行動しない人間であり、また第3話できりんに誘われて初めてリョウたちと行動したように、なんとなく受動態な生活を送っていることがくみ取れるだろうか*3

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椎名が彼女達に受動的な感情を持っているのが分かる決定的なシーンが、アニメ第3話のエンディングのサビ、空から3人が降って来るシーンだ。一見3人がただ単に手を繋ぐように見えるが、よく見ていただくときりんが積極的にリョウと手を繋いでいるのに対して、椎名はリョウに手を伸ばしたあと、その手を一度引いている。彼女の受動的、分かりやすくいうと遠慮がちな心理をハッキリと示しているのがわかる。

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これらの行動から椎名は自身の「憧れ」を抑えて、マイペースに他人と接している様子が伺える。

もっと分かりやすいのはリョウの「憧れ」である。端的に第1話で「お母さんに甘えたい」という寂しさをあらわにしている一方で、きりんに対してはそういった感情を出来るだけ漏らさないようにしているシーンが見られる。これもいわば自分の「憧れ」を抑えて、他人に迷惑がかからないよう配慮していると受け取れる*4

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◇「憧れ」と「自己表現」の葛藤

そしてその各々の「憧れ」の対象は、自身以外が達成している、というのも幸福グラフィティの特徴だ。

(お母さんに)甘えたい』という「憧れ」をもったリョウは、逆に他人からみればきりんの焼きもちの対象になったり、椎名に『普段と違う(普段と違って接しやすい)』と言われているように、『甘えられる存在』としてきりんや椎名から見られている。
逆に言えば、きりんは『リョウに頼って欲しい』という感情を持っているが、自身がいつでも頼れるリョウという「憧れ」の存在を羨ましく思っていて、椎名は『素の自分を表現したい』という感情を持っているが、純粋な感情で接してくれるリョウという「憧れ」の存在に羨ましく思っているのである。

3人はこうして、自身の内面的な感情を「憧れ」の他人へと投射して、自身を如何に表現するか、すなわち「自己表現」の方法について思考錯誤しているのである。
ややこしくなってしまったが、端的に言えば3人とも3人にそれぞれ「憧れ」ていて、その「憧れ」をどう「自己表現」するか、それが幸腹グラフィティの真のテーマなのだ。

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◇まとめ

大分長々とした話になってしまったが、幸腹グラフィティは

「自己表現」に葛藤する → 一緒に「食べる」 → 答えに「繋がる」

という流れを組んでいて、表のテーマとなっている「食べる」行為は、葛藤を忘れて「自己表現」を開放するためのになっているのだ。

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そういった構成やストーリーを理解した上で、視聴者の方々には是非とも幸腹グラフィティを味わっていただき、彼女達をより愛でてほしい。 
特に原作単行本は感情描写が顕著で、1週間飛ばし飛ばしのストーリーを見るよりも連続して見れるため、より感情移入がしやすいと思う。興味のある方には是非とも読んでほしい。高いけど。

あと、椎名さんはかわいいので是非とも注目してほしい。クールキャラだが後半は下手くそな愛を2人にこれでもかとぶちまけるからである。ぶっちゃけ椎名さんは死ぬほどかわいいのだ。

そんなこんなで私もお腹が空いてきてしまった。

*1:椎名としてもリョウは奪われたくない存在であったのかもしれない。しかしこのやりとりを通じて、きりんには完敗だという意思表示が「飴ちゃん」のプレゼントなのである

*2:作中では〝リアクション王トリオ〟などと呼ばれている<3巻>

*3:物語の後半はこういった行動、心情が顕著に出て来るのだが、アニメから入った方々に紹介するのにはこれが精いっぱいであり、申し訳ない限りである

*4:きりんはこういった点でみると、原作の後半では憧れを達成してかなり大人しくなっている。案外ニュートラルな立ち位置なのかもしれない

養殖開始します。

らいむらいんと申します。
普段は特にtwitterとかでバカをやっているもので、色々感じながら生活をしているのですが、たまに140文字で収まらない考えや、思いつきがあったりします。

そういったときtwitterで書いていくと、当然何回かに分けて書いていくのですが、だんだん書いている途中で考え方が変わってよく分からない文章になっていったり、(私の良くない癖なのですけれど)途中で飽きたりして纏まらないことが多々あります。
若しくはそういう意見をびっしり述べる場として、そもそもtwitter自体が不適切なのかもしれません。

 

そこでじっくり自分の考え方を作り込めることが出来、かつ適度に飽きれば放置が出来る最適な場として、新たにブログを開設することにしました。
正確に言うと〝再建〟というべきなのかもしれませんが、今まで作ってきたブログというのはどれもこれも「情報を発信していく」ということを主体に置いたものだったので、思ったことをぼやく、備忘録的なスペースとして作っていきたいと思います。

 

ところでこういった意見発信のブログというのは、端的に言って「知らんがな」の一言で〆ざるを得ない、そういったイメージを私は持っていました。何故なら「あなたのことはあなたのこと、わたしのことはわたしのこと」という前提のもと行動していた自分がいたからです。勿論今もそう思っていますし、自分と正反対の意見を目にすれば「こいつは何を見ながら生活してるんだ」とか色々思います。

しかしtwitterをやり始めて5年(ちょうどブログの更新が止まったのも5年ほど前でした)、流れて来るタイムラインには意味のない文字の羅列から、140文字埋まった意見の塊、そして顔も声も存在も見知らぬ人々の様々な喜怒哀楽のこもったぼやきが、滞ることなく流れて来るようになりました。

私はこれらを見ながら、無意識的に自分の考えと照らし合わせるようになったのだと思います。私は今大学生ですが、大学に入ると猶更、そういったことが大事になってくるのだと世間は言います。実際こうした行為をした上で、所謂〝意識の高い〟大学生になろうとしているわけではなく、こういったことをしないと生きていけない、情報の波を漕いでいけないのだと思います。

 

話が長くなりそうなので一旦まとめますが、要はこういった経緯を経た上で、自分と違った色々な意見を取り入れると言うことは非常に有用なことであるということを学びました。
これはブログにも当てはまります。延々つらつらと書き述べた自分の意見のページにはどこからか流れてきた読者がいて、彼らがどういう立場であれ、その意見を見て心の中で何かを思うのです。
私の意見を発信することで、誰かがこれを見て何かを思う。そういった場を目指してこのブログを成り立たせていきたいと思っています。

 

さて、前半で述べたtwitterのお話ですが、これは結局何がいいたいかというと、情報の海に飛び込んだとき、鵜呑みになるなというのを学んだということです。
うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい』という西村博之の有名な言葉がありますが、これは本当にそうだとつくづく実感します。

良い例としてtwitterには近年スパムが流れ込みやすくなりました。「続きは→URL」という風に誘導し、そこでアカウントを認証させることで、アカウントを乗っ取ることができるというスパムです。こういったツールを認証しない為には、まず「疑う」という前提が必要になります。

 しかしこういったスパムに引っかかる例というのは、少なくとも流れ出して1年経つくらいにはなると思いますが、いい加減減るどころか、むしろ増えているように感じます。最もそれだけ沢山流れている量が増えているのかもしれませんが。

 

上に挙げたことは私の言いたいことに被っているのかどうかは正直微妙ですが、すなわち情報を精査する、常に再考をする、という行為がtwitterをもって重要であると気付かされました。
自分でも何故twitterの話をここまでしているのか分かりませんが、少なくともこういったことが少しは考えられる場であったと思っています。また同時に、目に入れたくないものを目にしてしまう場でもあって、個人的に「公共の空間が流れる私情の画面」とでも言うべきなのかなと感じます。不適切な行為や発言が批判され炎上し、時には本当に警察の厄介にもなる、なんと落ち着かない場なのでしょう。

 

近頃は「クソリプ」という言葉が流行っています。自分のあげたツイートがRTされ、見知らぬ人に「同意!」だの「ぼくは違う」だの、「知るかボケ」と返したくなるリプライと言えばいいのでしょうか。

でもこのクソリプという考え方は、本来であれば至って正当な末路を辿った結果ではないかと思うわけです。何故なら情報を発信している以上、そこは何かしらの考えを刷り込む余地があるわけで、当然当人も受け取る余裕があるという前提でこのサービスが成り立っているわけですから、むしろクソリプを否定する文化の方がおかしいのかもしれません。

しかしながらこれらの考えが通用してしまっている背景には、やはり先ほど述べた「公共の空間が流れる私情の画面」という厄介なタイムラインが、出来るだけ平然を装って、誰にも何も言われずに私情を暮らしたいという、公共性を作り上げてしまっていることにあるのではないでしょうか。

 

長くなってしまいましたが、こんな感じで堅い話ばっかするか、はたまた写真ばっか上げるか、更新が止まるかすると思いますので、どうぞよろしくお願いします。