養殖開始します。

らいむらいんと申します。
普段は特にtwitterとかでバカをやっているもので、色々感じながら生活をしているのですが、たまに140文字で収まらない考えや、思いつきがあったりします。

そういったときtwitterで書いていくと、当然何回かに分けて書いていくのですが、だんだん書いている途中で考え方が変わってよく分からない文章になっていったり、(私の良くない癖なのですけれど)途中で飽きたりして纏まらないことが多々あります。
若しくはそういう意見をびっしり述べる場として、そもそもtwitter自体が不適切なのかもしれません。

 

そこでじっくり自分の考え方を作り込めることが出来、かつ適度に飽きれば放置が出来る最適な場として、新たにブログを開設することにしました。
正確に言うと〝再建〟というべきなのかもしれませんが、今まで作ってきたブログというのはどれもこれも「情報を発信していく」ということを主体に置いたものだったので、思ったことをぼやく、備忘録的なスペースとして作っていきたいと思います。

 

ところでこういった意見発信のブログというのは、端的に言って「知らんがな」の一言で〆ざるを得ない、そういったイメージを私は持っていました。何故なら「あなたのことはあなたのこと、わたしのことはわたしのこと」という前提のもと行動していた自分がいたからです。勿論今もそう思っていますし、自分と正反対の意見を目にすれば「こいつは何を見ながら生活してるんだ」とか色々思います。

しかしtwitterをやり始めて5年(ちょうどブログの更新が止まったのも5年ほど前でした)、流れて来るタイムラインには意味のない文字の羅列から、140文字埋まった意見の塊、そして顔も声も存在も見知らぬ人々の様々な喜怒哀楽のこもったぼやきが、滞ることなく流れて来るようになりました。

私はこれらを見ながら、無意識的に自分の考えと照らし合わせるようになったのだと思います。私は今大学生ですが、大学に入ると猶更、そういったことが大事になってくるのだと世間は言います。実際こうした行為をした上で、所謂〝意識の高い〟大学生になろうとしているわけではなく、こういったことをしないと生きていけない、情報の波を漕いでいけないのだと思います。

 

話が長くなりそうなので一旦まとめますが、要はこういった経緯を経た上で、自分と違った色々な意見を取り入れると言うことは非常に有用なことであるということを学びました。
これはブログにも当てはまります。延々つらつらと書き述べた自分の意見のページにはどこからか流れてきた読者がいて、彼らがどういう立場であれ、その意見を見て心の中で何かを思うのです。
私の意見を発信することで、誰かがこれを見て何かを思う。そういった場を目指してこのブログを成り立たせていきたいと思っています。

 

さて、前半で述べたtwitterのお話ですが、これは結局何がいいたいかというと、情報の海に飛び込んだとき、鵜呑みになるなというのを学んだということです。
うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい』という西村博之の有名な言葉がありますが、これは本当にそうだとつくづく実感します。

良い例としてtwitterには近年スパムが流れ込みやすくなりました。「続きは→URL」という風に誘導し、そこでアカウントを認証させることで、アカウントを乗っ取ることができるというスパムです。こういったツールを認証しない為には、まず「疑う」という前提が必要になります。

 しかしこういったスパムに引っかかる例というのは、少なくとも流れ出して1年経つくらいにはなると思いますが、いい加減減るどころか、むしろ増えているように感じます。最もそれだけ沢山流れている量が増えているのかもしれませんが。

 

上に挙げたことは私の言いたいことに被っているのかどうかは正直微妙ですが、すなわち情報を精査する、常に再考をする、という行為がtwitterをもって重要であると気付かされました。
自分でも何故twitterの話をここまでしているのか分かりませんが、少なくともこういったことが少しは考えられる場であったと思っています。また同時に、目に入れたくないものを目にしてしまう場でもあって、個人的に「公共の空間が流れる私情の画面」とでも言うべきなのかなと感じます。不適切な行為や発言が批判され炎上し、時には本当に警察の厄介にもなる、なんと落ち着かない場なのでしょう。

 

近頃は「クソリプ」という言葉が流行っています。自分のあげたツイートがRTされ、見知らぬ人に「同意!」だの「ぼくは違う」だの、「知るかボケ」と返したくなるリプライと言えばいいのでしょうか。

でもこのクソリプという考え方は、本来であれば至って正当な末路を辿った結果ではないかと思うわけです。何故なら情報を発信している以上、そこは何かしらの考えを刷り込む余地があるわけで、当然当人も受け取る余裕があるという前提でこのサービスが成り立っているわけですから、むしろクソリプを否定する文化の方がおかしいのかもしれません。

しかしながらこれらの考えが通用してしまっている背景には、やはり先ほど述べた「公共の空間が流れる私情の画面」という厄介なタイムラインが、出来るだけ平然を装って、誰にも何も言われずに私情を暮らしたいという、公共性を作り上げてしまっていることにあるのではないでしょうか。

 

長くなってしまいましたが、こんな感じで堅い話ばっかするか、はたまた写真ばっか上げるか、更新が止まるかすると思いますので、どうぞよろしくお願いします。