就活に失敗した俺と「夢」

一年ぶりとなるが、このブログを更新したい。
就活に失敗した。今、持ち駒はない。
現状はレールの途切れた人生をただぼーっと見つめている。
そんな現状から記したいこと、そして甘えを少し残しておきたい。

 

鉄道という「夢」

私は小さい頃から乗り物に興味を持っていた。特に鉄道に関しては人一倍で、小学校の頃から今の今までずーっと興味が離れていない。入試で合格して入学した中高一貫校では鉄道研究会を立ち上げる一人となり、地方ということもあってかメディアに取り上げられることもあった。こうした稀有な部活の一員であったことから、それを題材にしてAO入試に合格することが出来た私は、上京して無事大学生活を歩むことになった。大学在学中には駅員のアルバイト(現業)も経験し、これらから確かに「鉄道と関連した夢」を抱く気持ちが強くなっていった。

「鉄道に貢献したい」という夢を、曖昧であるが、でも他人より確実に強く持って挑んだ就活。3月にエントリーしたのは、鉄道会社そのものを経営する立場の「総合職」が中心だった。特に地元のJR四国は志望度の高い企業であり、地元出身という縁もあってか、狭き門とは言えどその門をかいくぐって書類選考を通過した。他にも数社受けたが何れも悪い結果ではなかった。

ところが試験になると飛んでダメだった。JR四国は勿論、次が最終という企業にも落ちてしまった。このとき挫折を感じた。試験に落とされるという、端的に言って「頭の悪いヤツ」というレッテルを貼られたことは勿論、何よりJR四国に落とされたことに酷く落ち込む自分が居た。何故だかは分からなかったが、今となって恐らく一番「夢」に近かった「就職」先だったんだろうと感じた。たった数社の希望が崩れただけで挫折と感じた理由は後述するけども、自身としては一つの挫折であったと考えている。6月の初めの話だった。

このとき周りには「希望職の範疇が狭すぎる」とか「己の就活の軸って何」みたいな指摘を受けた。反省というか、それなりに考えて、少し幅を広げて例えば鉄道部品業者とか鉄道の出版業者とかも受けたのが6月の中旬。それ以外にも数社受けていたが、場数を踏んで慣れたのかほぼすべての企業で最終選考まで進めることが出来た。鉄道現業職もその一つにあり、保険という訳ではないが、現場経験がある以上その可能性は大きいものであった。友人は言う。「3つもあれば1つは受かるでしょう」と。

最終選考で言う。
「他人とは違った経験があります」「私は周りを見渡せます」。
出版業ではこう言われた。
「作文を読ませて頂きましたが、結論が書けてないようで向いていません。」
時間ぎりぎりで書いた作文に関して、文句は返せなかった。
部品メーカーではこう言われた。
「あなたの想う企業像とは違うかもしれません。ネジとかを納入してる会社なんです」
そんなこと、どこにも書いてなかった。

でも鉄道現業の面接は違った。
「あなたの想う社会人像とは?」「責任の負える人間です。」
これはいける。

 

結果、全部落ちた。
2度目の挫折は今日である。

 

反省

文章にしていくと分かりやすく欠点が浮かび上がる。
就活に向けた準備なんてものはしていなければ、「目標」は正確に定まっていなかったし、頭も悪かった。

しかし私自身想うのは「夢に憧れすぎた」というスタンスにも原因はあると考えた。

就活の面接ではよく何かを語らされる。「あなたが当社で取り組みたいことは?」とか「あなたはどういう学生生活を送っていましたか?」とか、色々聞かれ、即興で盛りに盛った話とか、時に自分が心から想う話をしなければならない。
何故か会社に入るために良い話に加わる良い自分を演じることが最早必須となっている現代の面接もちゃんちゃらおかしい話だが、
(それに文句を言っても仕方がないので、くだらねぇと思いながらやっているのだが)
そんなときに「挫折したことはありますか?」などと訊かれると、「就活で志望の会社に行けなかった」なんて話をポロリとしてしまったり、そんなこと聞かれなくても、自ずと自身を語る上で欠かせない「夢」と「夢を目指した跡」が出てきてしまう。

「夢」が俺の将来を邪魔している。と気付いた。

総じて「夢」に期待を抱きすぎた。「夢があるから」と思って就活を存分にナメていたし、「夢があるから」と思って「職」をこだわりすぎたし、「夢があるから」と信じて何も努力をしなかった。

 

「努力に報われること」を知らない人

どうして俺はこんな二十歳を越えてまで「夢」なんて恥ずかしい〝希望〟を抱いていたんだろう?

自身の人生が奇遇にも順風だったんだろうと振り返る。

私は決して貧乏とは言えない家で育った。両親も仲が良く、父の職も「先生」なんて呼ばれるものだったし、生い立ちは悪いものではない。
小学校から中学校に上がる際は、地元で一番頭のいい中学に合格して入学した。その年初めて受験定員割れをしていた中学では、実質全員合格であった。だから私は頭で入ったのではない。実際勉強も大してしていなかった。

高校の入学もエスカレーターで、でも中高共に勉強は難しく、教育方針も分かる奴だけ分かれという風に、宿題という形ではなく自主学習という形が多かった。
そんな環境に入れられた私はず~っと底辺に住んでいた。勉強なんてろくにしなくても親と学校がうるさいだけで危機に迫られたりはしない。中学の教育を2年で終わらせてしまうのに私はその頃の記憶がすっぽりと抜けて、漫然と高校3年を迎えた。

大学受験となったとき、いよいよそのツケが回って来た。早々に浪人を考えて半ば試合放棄をしていた私に、友人はAO入試をダメ元でいいから受けろと言った。鉄道の話をつらつらと並べると、何故か合格してしまう。受験票を大学に忘れてきたのに。

しかし大学に入学したからと言って何か変わるわけではなかった。単位を落とすことは頻繁で、今現在残単位を回収するのに必死なツケがまた回ってきている。
都会に住んだ経験がなく、とにかく都市部の生活に慣れない私は、必然的に家に籠ることも多い。それは自然と閉鎖的な生活を望む自分の理想像だったのかもしれない。

 

その中で就活…となり、自身の中で甘んじていても開かれた道の存在が常態化していたことによって、「やればどうにかなる」という甘ったるいスタンスが、芽生えるどころかもう大樹に成長していて、その考えから恐らく今現在に至るまで抜け切れていないのだと反省した。
先ほど順風と述べたが、「順風満帆」という言葉の通り、帆を立てねば船は思った方向に進まない。私を乗せた船は帆なんて立てずに自然と大海の真ん中に辿りついてしまったわけである。

帆を立てるにはそれなりの手順で作業を経る必要がある。
ところで私の人生を簡単に振り返ったところで勉強をしただろうか。ずっと底辺で勉強せずに生きてきた以上、勉強の仕方を知らない。そして勉強をしてそれが実る瞬間の喜びも知らない。だから勉強出来ない。そういうループを延々と繰り返してきた以上、私はこの期に及んで「帆の立て方も立てる意味も分かっていない」ことをようやく理解したのである。

 

オーダーメイドのTシャツ

「夢」を抱くなんてことは馬鹿らしいかもしれないが、でも大事なことなのは知っている。実際それを抱く人、実現する人、あるいはその必要性を訴えかける人が何人もいるからである。
でも「夢」だけを信じて生きることは間違っている。夢は努力で支えるものである。それが分かった今、それを知るのが遅すぎた今、私は今後を憂う。

夢なんて捨てちまえばいいのかもしれない。
「実際夢をもって就活に臨んでる」なんて心から想っている人は少ないだろう。自身にとっても邪魔になってるし、牌は残っていない現状からして、もう幻想に近いものだと考える。はっきり言えばそんな夢見てないで、なんか適当なとこに就職すりゃいい話である。

先日就活相談のカテゴリで見た、どこぞの知恵袋にはこう書いてあった。
「人々は皆、職業に自分を沿わせていくものです。服屋では用意されたTシャツの中からあなたの体に合ったものを着れるだけであって、決してオーダーメイドのTシャツを着れるわけではありません。」

実に深い、というか全うである。私はオーダーメイドのTシャツを着ようとしているし、ましてやTシャツを着ようとしているのか、それともパンツを履こうとしているのかさえも分かっていないからである。なるほど世の中で就職している人の大半は、肩幅が広いけれどもユニクロのMサイズのTシャツを着ているし、ときには自分よりはるかに大きいXLのTシャツを着させられている人もいる。

 

人生に意味はありますか

しかし私はオーダーメイドのTシャツが着たい。今すぐに、自分好みのTシャツが着たい。夢は捨てきれなさそうなのが現状である。

話がコロッと変わってしまうが、貴方は、貴方の近くにいるあの人が、恋人が、両親が、本当に「他人」だと思うことができるだろうか?
私は幼い頃こんなことをよく考えた。「他人」は、或いは「社会」は、自分が作りだした虚像ではないか?それは、都合よく生み出された私の中にある「私の世界」ではないか?

もうそんなこと流石に考えたりはしないけれども、仮にそうした世界観で居たとしたとき、人生とは私だけのものであって、例えばそこで主人公視点ではなく、モブとして生きることは楽しいことなのか、と考えることだけは未だに引き摺っている。

要するに私はもっと人生を特別なものにしたいのだろう。
そんな中でオーダーメイドのTシャツを着るという「夢」はまさに人生の幹であって、私はこれを捨てることが出来ない。

あと単純に夢として捨てようにも捨て方が分からない。

 

今後

長々と書いてきたが、結局のところ私は未練たらたらなくせに何がしたいのか分かっていないのだと再確認した。
一方で、それに拘りすぎている現状にも問題があるとも感じる。人生の幹とか言うなら、時間をかけてそれを目指せばよいだけの話であるのだから、何故私が「就活」で「今」「すべて」を賭けているのかが自身にも理解不能である。

恥ずかしい文章となってしまったが、これで〆させていただく。